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中司氏の法廷陳述081226(08.12.26 603号法廷にて メモと速記)


   市長としての政治姿勢、信条  

 
私の市長としての政治姿勢や信条についてお話させていただきます。

 私は、平成7年4月に初めて枚方市長選挙に立候補しましたが、それは、阪神大震災という未曾有の災害の直後の時期でした。枚方では目立った被害はなかったのですが、すぐに仲間と街頭で義援金を集め、救援物資とともに被災地に届けました。その惨状を目の当たりにしたとき、こうした大災害が枚方のまちを襲ったなら大変なことになる、危機管理や災害対策は万全だろうか、生まれ育った愛する郷土を、そして市民生活を何としても守りたい―との思いを強くし、それまでめざしていた国政から方向転換して、地元枚方の市長選挙への立候補を決意したのです。

 私は、このとき完全な無党派として選挙を戦うことを決め、政党の推薦や支持を一切受けなかったため、各党相乗りの元助役の候補と徒手空拳で戦うことを余儀なくされました。予想通り選挙戦はかなり厳しいものとなりましたが、「枚方の流れを変えよう」と、停滞していた市政の刷新を訴えて相乗り候補に挑んだ私に軍配が上がり、僅差で初当選を果たすことができました。

 政党の支援を受けず、しかも庁外から単身市役所に乗り込む形となったため、就任当初は市政運営や議会対策に大変苦労しました。当時、市は財政再建が急務であり、このため、市長になって最初の決断は、以前から計画されていた文化ホールの建設の凍結を表明することでした。市議会からは反発を受けましたが、各議員と誠意を持って話し合い、行革の必要性を強く訴えた結果、ようやく文化ホール建設の延期が承認されました。この出来事がきっかけとなって市議会との関係が改善され、予算案をはじめ、重要案件はすべて可決される状況となりました。

 市長は一党一派に偏るべきでないという考えから、その後も一貫して無党派を貫き、全市民に公平公正な市政であることを信条に、市長就任後は、それまで続けてきた後援会活動のほとんどを休止しました。2期目以降の市長選挙でもどの政党の推薦も支持も受けませんでしたが、それぞれ10万票から12万票を得票し、他候補を圧倒的に引き離す結果で当選することができました。このように市民のみなさんの強い支持を得て、公約に掲げた市政改革を強力に進めることができたのです。

 市長に就任して最も重視したことは「市民との対話」です。市役所への行き帰りは公用車を使わずバスと電車を乗り継ぐなど、通勤時にも市民のみなさんとの対話を心がけ、市政に対する意見や思いなどを聞かせていただきました。その一方で、市職員との対話も大切にし、各職場を回って市政の実情や問題点を把握することに努めました。

 枚方市では45の小学校の校区ごとに住民自治の組織としてコミュニティー協議会が設けられています。私は、各校区が抱える問題や地域の実情を把握するため、各校区のコミュニティー協議会の総会や行事にできる限り出席し、職員とともに地域の役員さんから要望や問題を伺い、市民のみなさんと力を合わせて問題解決に当たるよう務めました。このことは、失われつつあった地域コミュニティーの再生や、地域力を高めることにつながったと思います。

 また、阪神大震災の教訓から危機管理に力を入れ、災害などの現場にはいち早く駆けつけるよう心がけてきました。災害のみならず、問題解決のためには何事によらず現場を訪れ、住民の意見を聞くことを大切にしてきました。

 さらに、商工、福祉、医療、環境、教育、文化、スポーツ、労働組合など、幅広い分野にわたって、常に多くの人々と意見を交わし懇談する機会を持っていました。こうした姿勢が職員にも伝わり、枚方市では市政の各分野で市民と行政との協働の仕組みが培われてきました。

 しかしながら、このように市民のみなさんとの対話を重視してきたため、土日祝日は必ず何らかの予定が入り、年間を通して休みは10日にも足りないほどでした。

 就任当時、バブル経済の崩壊で市税収入が減少する一方、歳出面では人件費など経常経費が増大し、市の財政は赤字に転落、財政的に破綻寸前の状況であったため、先ず第一番に着手したのは行政改革です。そこで、市民参加の行政改革推進会議を設置し、その提言を受けて行政改革大綱を策定、さらに思い切った緊急対応策を実施して赤字財政からの脱却を図りました。

 具体策としては、市役所内部の行革努力を最優先し、4千人近くいた職員を約1千人削減し、給与、手当てのカットを行うなど、他市に比べて高かった人件費の大幅削減に切り込みました。職員からの反発もありましたが、私を含めて特別職や管理職が率先して給与をカットするとともに、職員に危機的な市の財政状況を説明し、粘り強く話し合いを重ねて理解を求めました。

 また、行政評価システムを取り入れて膨大な市の仕事をもう一度洗い直して整理し、時代に合わなくなった無駄な仕事をなくす一方で、受益者負担の原則を踏まえて行政サービスの適正化を図るなど、全庁挙げて行財政改革に取り組んだことで、財政危機を脱し、様々な市民要望や事業を実現しながらも、財政の黒字転換を達成することができました。

 私は、市政運営において常に市民参加と情報公開を心がけてきましたが、その考えをさらに高めるため、3期目の平成15年の選挙では、全国に先駆けてマニフェストを導入しました。そして、マニフェストが実行できたかどうかを市民の視点で検証する「マニフェスト検証評価大会」を2度にわたって実施し、その結果を踏まえて昨年の4期目の市長選挙のマニフェストを作成しました。

 こうした、いわゆるマニフェスト・サイクルの取り組みは全国で初めてでした。このようにビジョンを示して開かれた市政を行うことによって、政策遂行のスピードアップが図れ、市政改革が一層進み、市民の市政への関心度や市政への市民満足度が高くなり、日経新聞の行政サービス調査で近畿の市の中で1位になるなど、各種指標調査で枚方市の都市ランキングも次第に上がってきました。

 平成16年から昨年辞職するまで大阪府市長会の会長を歴代最年少で務め、50歳未満の市長で組織する全国青年市長会の会長にも就任、このほか、道路整備促進期成同盟会全国協議会会長、環境自治体サミット共同代表などをつとめ、都市間の調整や都市問題の解決に力を注いできました。

 市の政策として力を入れてきたのは、子育て支援をはじめ福祉、医療、環境、文化観光などで、それぞれの政策展開においてできる限り市民との協働の仕組みを作ることを心がけ、一部の市民のためでなく全ての市民が幸せを感じるようになることを目標にしてきました。

 このように、市民サービスを高め、魅力づくりに力を注いできたのは、今後さらに少子高齢化が進み人口減少期を迎えることで、市税収入も確実に減少する見通しであり、まさに自治体も競争の時代といわれる中で、一人でも多くの人に、枚方を愛し、枚方に住みたい、と感じてもらうことが、市の発展と市民の幸せにつながると思ったからでした。このため、マニフェストで方向性をきちんと示して施策の具体化を進め、全ての市民が、より幸せを感じる市政を実現することが、市長としての私の目標でした。

 市民から信頼される行政であるためには、透明性を高めなければなりませんが、枚方市では、過去ほぼ2年に1度の割合で市職員の不祥事が起こっていました。そこで、市職員の綱紀を粛正し、能力重視の人材登用など人事体制を確立して庁風を刷新する一方で、契約・入札制度の改革を重視し、他市に先駆けて価格公表制度、一般競争入札制度、郵便入札、電子入札の導入などを行い、透明性を高めてきました。

 就任時の大きな政策課題は、40万都市に相応しい都市基盤の整備でした。私は、国や大阪府に何度も足を運び、繰り返し現状を訴えましたが、そうした苦労の中で、遅れていた道路や下水道、駅前や公園の整備などが着実に進んできました。しかし、残された問題は、老朽化している清掃工場と火葬場の2つの施設の建て替えでした。いずれも市民生活には不可欠でありながら、近くに建てられては困るという、いわゆる迷惑施設であることから、いざ建設するとなると周辺住民の激しい反対を受けて前に進まず、長年先送りされてきた事業でした。

 財政再建に一定の見通しが立ったため、まず老朽化が著しい清掃工場の建て替えを優先することになり、私は、住民の激しい反対運動が続く中、何度も現地に足を運び、深夜まで話し合いを行いました。その中でいただいた地元の皆さんの意見を真摯に受け止め、ダイオキシン問題など環境面で最大限の配慮を行うことや地域の活性化策を進めることを約束するなど、担当職員と一緒に地元の理解を得る努力を重ねてきました。そして、焼却ゴミの半減を目標にごみの減量化を強力に推進した結果、施設の規模も予算の額も当初の予定より大幅に削減することができたのです。

 また、以前に別の清掃工場建設のさい契約に疑惑があることが判明し、市議会で調査特別委員会が設置されたことがあったことから、事業実施にあたって、談合のない施設整備に取り組むこととしました。そこで、市民参加の第2清掃工場建設検討会議を設置し、世界最高水準の施設整備と談合のない発注方式を諮問することにしました。

 このように、長年にわたる地元のみなさんとの話し合いや、それを受けた施策展開など、関係者の不断の努力の中で、第2清掃工場の整備を進めることができたのでした。

    
冒頭部分は以上です。

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